2026.4 最後にはアレルヤという復活の喜びが 飯野 耕太郎
主のご復活おめでとうございます。
今年の冬はとても寒く雪の多い年でした。
特にお隣の県の青森や、秋田県でも北部の大館や鹿角は大雪で大変だったようです。
そして、雪の事故で命を落とされた方も多くいました。お気の毒なことでした。
このような厳しい冬でしたので春を迎える喜びは格別なものがあります。
今年に入って私のまわりでは身近な方々で亡くなられたり、病気になって入院されたりしている方々がいます。
こんなに突然にとか、こんなに良い人が何故と神様に問いかけたくなることがあります。
ある朝、突然息子さんが急死されたり、がんと宣告されたり、脳溢血で倒れたり、そういう方々が、何人かおられます。
神様のなさることはよくわかりませんが、必ず意味が隠されているのではないかと思います。
その意味は天国に行ってからあかされるのだと思いますが、今はそのプロセスであり、完成ではない事だけは確かです。
聖書に書かれている事柄も分からないことが多いです。
私たちの取り次ぎ者であり、良き母であるマリア様も分からないことを心に納めていたと聖書は記しています。
復活の出来事を通して初めてその意味が理解できるということなのでしょう。
マルコ福音書は弟子たちの無理解を至る所に記しています。
けれども福音書の終わりの方では、この無理解だった弟子たちが「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」と復活されたイエス様から派遣されています。
そして弟子たちの大半が、後に殉教していきました。
人は嘘の為に、殉教はできないと思います。
無理解だった弟子たちが、信じる者に変えられ喜んで自分のいのちをかけてまで福音を伝えに全世界に旅立っていったのです。
弟子たちの復活体験が如何に大きかったかを物語っています。
今、重い病気で入院されておられる方、様々な事情で苦しんでおられる方々、その方々の痛みを復活されたイエス様が、み手を触れて癒してくださいますように祈りたいです。
そして同時に、その方々の犠牲が今の世の中の闇の部分をくい止める働きにつながっているような気が致します。
復活されたイエス様と共に、み国の完成に向かって協力して下さっているからです。
いつか私たちも、同じような立場になることがあると思いますが、必ずその犠牲が、何かの役に立っていることを信じていきたいです。
旧約聖書の中に教会の心ともいわれている150篇からなる詩編が納められています。
詩篇には教訓的なもの、嘆願、賛美が織り込まれています。
神を信じて生きる人が、この世で経験するさまざまな苦しみの中から神に訴えかける嘆きの祈りに満ちていますが、最後の数篇はアレルヤ(主を喜びたたえよ、主をほめたたえよ)という喜びに満ちたアレルヤで終わっていきます。
そこにはこの世での苦しみは、最後にはアレルヤという復活の喜びがあることを暗示しているようです。
この世での苦しみはプロセスであり、完成ではありません。
何故なら主は死に勝利されたからです。
最後には喜びであるアレルヤがあるのです。
「神をたたえるアレルヤの歌が響く教会は、嘆きに包まれて生きる日々の中で、それでもわたしたちの神への信仰を生き返らせる、わたしたちの信仰者としてのいのちのオアシスです」(吉池好高神父)。
慰められる金言です。
また、復活されて今も共に歩んでくださっている主が、困難に陥っている兄弟姉妹を力づけてくださっている証の体験があることを私たちは知っています。
私も1つの体験を分かち合いたいです。
私の1年後輩で27歳で帰天された1人の神学生がいました。
彼はポーランドの出身でした。
毎年1回開かれるポーランドの社会・文化に関する全国高校論文コンクールで1976年から77年にかけて2度1位になり、ポーランドの全大学に無試験で入学できる資格を得ました。
しかし、彼はその道には進まず、神学校に入り、宣教師として日本で働くべく名古屋の神言修道会の神学校にやってきました。
明るい性格でみんなに好かれ、あらゆる面で才能を発揮していましたが、来日4年目に体を壊し聖霊病院に入院しました。
診断の結果、悪性リンパ腫瘍、いわゆる末期のガンでした。
彼は亡くなる1ヶ月前に次のような文章をしたためました。
「僕がガンにかかっているか。かかっていないか・・それは大したことじゃない。
ただ神の計画だけが大事なのだ。
僕は生きられるとしても死ぬことになるとしても、神のみ旨のままに委ねるだけ。
主よ、どうかこのことばに今精一杯の力を尽くして、忠実に従うことができるように、僕に勇気を与えてください。
ただ主よ、僕の家族と友人のために願います。
僕のために苦しんでいる彼らの心の重荷を取り除いてください」と。
司祭になって日本で働きたいという大きな希望を抱いてやってきたのに、無残にもその夢は絶たれました。
しかも異国の地にあるため家族とも会うことができず、大変寂しかったと思います。
その寂しさの中にあっても自分のために苦しんでいる家族や友人の心の重荷を取り除いて下さいと願っています。
人間は苦しい状況にある時は普通、自分のことで頭がいっぱいになり、他者のことを考えるゆとりはないのではないでしょうか。
しかし彼は他者のことを考えるゆとりをもっていました。
また、彼は同じ文章の中で次のようなことを言っています。
「主よ、僕は祈る時、良い指導者を、良い先生をとあなたに願いました。
もし、そのような指導者があれば、僕の手をとって、不安に揺れ動く僕の心を静めてくれると思っていました。
しかし、今、あなたは僕が期待するよりものより、もっと偉大なことをあらわして下さった。・・それは主よ、あなたご自身が私のもとに来られたのです。
それはまさに、あなただけ、ただあなただけ、他のものはもう何もいらない。あなただけ」
この文面を読むと復活なさった主が彼のもとを訪れ彼の不安な心を喜びで満たして下さっている様子が伝わってきます。
病気の癒しではなく、主と一つになる喜びを与えてくれました。
私たち洗礼を受けた者のゴールは主と一つになることです。
彼は主と一つになって今も、このような形で宣教しています。
今は天国から私たち仲間を励まし、共に祈り、働いているのだと思います。
何故彼が先に召されていったのかは分かりません。
神様の計画は私たち人間には理解し難いものです。
でも神様は、私たちにとって一番良いことを考えて行ってくださっていることは確かです。
2月11日、それは、聖母のルルド(フランス)でのご出現の日であり、世界病者の日となっています。
ルルドには重篤な病を抱えた方々が世界中から訪れてくる聖地です。すべての人が癒されるわけではありませんが、共通していることはその方々の表情が明るい表情に変えられることです。
来る前と来た後では全然違います。
それは、私は見捨てられてはいない。
神様から愛されているということを実感したのだと思います。
神様に触れられたといっても良いのでしょう。
復活されたイエス様は今も働いておられます。
今、近しい方を亡くされて苦しんでおられる方々、病気で苦しんでおられる方々、そしてその家族の方々、様々な事情で不安に陥っておられる方々、それらの方々を復活された主が、み手を差しのべ癒してくださいますように。
そして、その方々の上に今一番必要なお恵みを与えて下さいますように祈ります。
アーメン、アレルヤ。