2022.4 赦しを土台としたホーム 主任司祭 飯野 耕太郎

主のご復活おめでとうございます。
今年の冬は昨年よりも降雪量が多かったようで、私の手帳にも教会の除雪、昨年は35回、今年は44回と記されていました。
昨年よりも大変でしたが、購入した新しい除雪機が故障もなく活躍してくれて助かりました。
ましてや県南の方々は昨年以上に難儀されたことでしょう。
このように、厳しい冬を乗り越えてきただけに春を迎える喜びは一入です。
また、コロナのパンデミックから2年以上がたち未だに収束できないもどかしさもあります。
教会の公開ミサも秋田市内の感染急拡大により1月の下旬から3月後半まで中止となりました。
そして、危惧されていたロシアの一方的なウクライナに対する軍事進攻は衝撃的でした。
一日も早く、戦争終結の道が開かれるように祈るのみです。灰の水曜日に、教皇様は祈りと断食を、平和のために、そして、戦争終結に向けて私たちに呼びかけておられました。
そんな中、聖体奉仕会のシスターが信徒会館のショーウインドーに、聖ピオ神父の物語と聖ピオ神父のモットー、「祈れ、頼れ、心配するな」という言葉を貼ってくれました。ピオ神父は相談に訪れる人に神に祈ること、神のいつくしみに信頼して委ねること、そして、心配しないことと、アドバイスしていたそうです。
コロナ禍にあって閉鎖的になっている人々を励ましたいという、シスターたちの熱い思いに感謝でした。コロナ禍にあって、制約されることが多くなりましたが、イエス様だったらどうされるかを考えるきっかけにもなりました。イエス様が十字架につけられる場面で、大祭司や律法学者が一緒になって、イエス様をあざけり、次のように語るところがあります。
「あの男は人を救ったが、自分自身を救うことはできない」(マルコ5章31~32)と。
彼らもイエス様が、人を救う方であることを認めています。
イエス様はいつも自分のことよりも人を救うことに百パーセント力を注いでおられた方でした。
十字架上のイエス様の姿はボロボロになるまで自分のすべてを完全に与え尽くした愛の姿でした。
イエス様が今ここにおられたなら、シスターたちと同じように「恐れるな、勇気を出せ、私が共にいる」というようなメッセージを発信して下さるだろうと想像できました。
イエス様の十字架による贖いの死は、神様の愛は憎しみよりも、また、コロナの感染力よりも強く、広く、深いものである事を教えてくれます。
そんな中、とても励まされた本の中に、イスカリオテのユダを扱った「ユダよ、帰れ」(奥田知志 著、新教出版社)というものがありました。
聖書の中に、イエス様の言葉として「人の子を裏切るその人は不幸である。
その人はむしろ、生まれなかった方がよかったであろうに。」(マルコ14章21)というところがあります。
これをどのように解釈したらよいのだろうか。
以前、秋田教会へ講演に来られた批評家の若松英輔さんに、永山神父様がこの箇所を質問されたことがありました。
若松さんはユダに対してイエス様は「おまえも大変だなぁ。こんなことなら生まれなかった方が楽だったかもしれないなぁ」というように、ユダを救われないと糾弾しいるのではなく、ユダに同情されてイエス様が言っておられるのではないでしょうかと説明してくださったのが心に残っています。
復活節前の聖週間で、毎年朗読されるユダの裏切りの場面。私の中にユダは救われないのではないか、イエス様を裏切った悪の権化となった不幸な人物というのが定着しつつありました。
そんな中で読んだ奥田さんの本は神の赦し、十字架の贖いの計り知れない豊かさというものに、また、あらためて気づかされました。
聖書の中で、ユダはイエス様に対する判決を知って後悔し、銀貨30枚を大祭司や、長老たちに返して「わたしは罪のない人の血を売って、罪を犯しました。」と言いました。すると彼らは、「われわれの知ったことではない。自分で始末するがよい」と返答します。
いわゆる自己責任論です。追い詰められたユダは首をつって死んでいきます。著者は言います。「彼は帰る場所を間違った。赦しのない場所に帰ってしまった。
・・もし、ユダが帰るべき場所「ホーム」に帰れたら、彼は生きられたと思います」と。
「陰府に下るユダを底なしの闇が覆います。ユダは地獄のことを考えていました。彼は恐怖に支配されていました。
いよいよ地獄の門が見てきました。扉が開かれました。
恐怖に震えるユダ。彼は恐る恐る目をあけます。なんと、そこには傷ついたイエス様が立っておられました。
そして、ユダに言われました。
ユダよ、帰れ、お前が帰るべきは私のところなのだ。
私こそが、帰るホームなのだ。私はお前よりも先に地獄に下り、お前の受けるべき裁きを受けた。
お前の罪は裁かれた。
大丈夫だ。
お前は赦された罪人としてこれからも生きるのだ。
私と一緒においでなさい。
さあ帰ろう。
ユダはイエス様に抱きとめられて天に昇っていきました。
イエス様の懐に抱かれたユダは、まるであかちゃんのように泣き続けました。
その日、ユダは帰郷を遂げたのでした。」これが奥田んのユダに対する福音の解釈です。
私たちがミサの中で唱える信仰宣言の箇所で「陰府に下り三日目に復活し」というところがあります。
この「陰府」を奥田さんは「地獄」ととらえておられるところがすごいです。
昔、先輩の司祭が聖テレジアはこんなことを言っていると、教えてくれました。
「私は地獄があることを信じています。
けれども、地獄に人がいることは信じていません」と。
聖テレジアのこの言葉をまだ私は本で確認していないですが、もし、本当ならすごい言葉と思います。
教会の教えとは違いますが、教会が認めた聖人の言葉ですから否定することもできないでしょう。
そこに神様の十字架の贖いの広さ、深さ、そしてイエス様の死と罪の闇に勝利された復活の力の大きさを感じずにはいられません。
復活節を迎えた喜びのなかで「恐れるな、勇を出せ、私が共にいる」という聖書のみ言葉に信頼しながら、そして、私たちの教会が裁きではなく、赦しを土台としたホームを目指すことができますように、共に歩でまいりましょう。

2022年04月09日