2021.12 いのちをもたらす言 主任司祭 飯野耕太郎
小学生の頃、電話はそれぞれの家に一台あるという時代ではなかった。
だから電話のある家にお願いして電話をかけさせてもらったりしていたという記憶がある。
また、県外に電話をかけたり、電話をして、手紙を海外に出すのにも時間がかかった。
今は、メールやラインで海外でも格安にしかも瞬時に届くようになって便利な時代になっている。
あの頃は、会話できることの有難みや手紙の返事が来るのを楽しみに待っていたものだ。
それだけ、言葉の重み、有難みがあったように思う。
今は、駅の待合室でも、空港でも、電車の中でも、皆横並びになってスマホをいじっている。
隣同士に座っている学生たちも互いに会話することなく、スマホを操作している。
いつしかそれがあたりまえの光景になってしまった。また、便利になった一方で、ウィルス感染や洪水のような情報に振り回される時代にもなった。
そのような喧噪な世界の中で、「初めに言があった」と聖書は語っている。
そして「言は神と共にあった」とも記している。神のことばにはいのちの重みがあり深みがあり、根っこがある。
こんな話がある。
一人の男が、神が人間として生まれたクリスマス等信じられないと思っていた。
そんなある晩、外は吹雪になっていた。
彼が部屋で本を読んでいると窓ガラスに何かぶつかる音がする。
ドスン、鳥たちが避難所を求め明かりめがけて飛び込んできたのだった。
窓ガラスにぶつかっては次々に落下していく。
かわいそうに思った彼はランプに火を灯し納屋に走っていった。
納屋の戸を開き、ランプを円を描くように回しながらこっちに来いこっちだと心の中で叫んでいた。
だが、鳥たちは一向にこちらには来てくれなかった。怖がって吹雪の中をちりぢりに飛び回っている。
彼は思った。
こんな時、鳥の言葉を話せたらと。
その時、彼は気づいたのだ。
神が人間になってくれたクリスマスの意味を。
「言は神であった」とも聖書は記している。
神は人間を救うためにひととなってくださった。
もっと楽な方法で救いの計画をたてればよいものを一番しんどい方法でそれをなしとげていかれた。家のないところで生まれ、家のないところで死んでいく。
しかも十字架刑という極悪人というレッテルを貼られながら。
イエスは人の心に届くいのちのことばをもたらしてくれた。
それほどまでにして私たち人間のことを心にかけてくださった。
クリスマスで読まれる聖書の箇所に「宿屋に彼らの泊まる場所がなかった」というところがある。
居場所がなかったのである。
そのイエスは今度、自分が居場所になってすべての人を招いてくださる。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう」と。
クリスマスはシングルマザーの人たちには人気がないと以前新聞で読んだことがあった。
子供にプレゼントを買って上げる余裕がない。
だから、クリスマスなんてなければいいのにと思うそうだ。クリスマスはむしろ居場所がない、そんな人たちが救い主の誕生に招かれていることを知って欲しい。
あなたの居場所になってあげたいというクリスマスのメッセージを知って欲しいと強く思った。
救い主の誕生を知らされた羊飼いたちも当時、居場所のない人たちであった。
社会から忌み嫌われ、社会の周辺に追いやられ、社会の最下層でふみにじられていた人たちだったのである。
救い主の誕生に招かれた羊飼いたちはプレゼントを持参する必要はなかった。
なぜならば、招きに答えた彼等そのものが神様が喜ぶプレゼントになったのだから。
私たちも救い主の誕生を祝って彼等と一緒に喜ぼうではないか。
「すべての民におよぶ大きな喜びを告げる」。
今日、わたしたちのために救い主が生まれてくださったのだから。